アロハシャツの起源と歴史  [SUN SURF]

アロハシャツの起源と歴史 [SUN SURF]

アロハシャツがどのようにして生まれ、進化してきたのか、その物語を知ることはとても魅力的です。Sun Surfのヴィンテージアロハシャツは、その豊かな伝統と優れたデザインを持ち、夏のスタイルにぴったりです。

アロハシャツ誕生の背景

1868年(明治元年)に初めて移民として海を渡った「元年者」以降、20世紀初頭まで多くの日本人がハワイへと移住した。開拓民の彼らのほとんどがサトウキビ畑の労働者として働いた。当時、農園で着ていた作業着が「パラカ」と呼ばれる開襟シャツ。ヨーロッパの船員たちが着ていた長袖の上着が起源の、青いチェック柄の木綿地で作られたそのシャツは、日本人にとってなじみの深い絣に風合いが似ていたことも手伝い日系移民に浸透した。このパラカシャツが、現在のアロハシャツの原型になったと言われている。アロハシャツの発祥には諸説ある。決定的な史料も残っておらず今となっては断定することができないが、日系移民の存在が深くかかわっていることは間違いない。

 

 
9世紀から20世紀にかけて、ハワイに渡った日系移民労働者の作業着であったパラカシャツ。
1890年代のサトウキビ農場の日系労働者。当時は婦人の作業服として、絣(かすり)のシャツに縞柄のスカート、手甲・脚絆(きゃはん)に地下足袋を履き、白い木綿の頬かむりの上から大きな麦わら帽を被っていた。

 

 

移民が日本から持参した着物や浴衣が古くなると、その端切れを使って子ども用にパラカ風シャツを仕立てて着せていたという。和装独特の色や柄が現地の人々や観光客に新鮮に映ったことは容易に想像でき、着物や浴衣用の新しい生地を使って仕立てた開襟シャツが人気を博し、徐々に広まったと推察できる。事実、農園での労働者であった日系移民はやがて街中の様々な分野の職業に就くようになり、1900年を過ぎた頃にはホノルルに多くの仕立屋や呉服店を営んでいた。

 仕立屋ムサシヤ・ショーテンもそのひとつ。最も早い時期から「和柄」の生地を使ったシャツを仕立て、1935年に「アロハシャツ」という言葉を初めて新聞広告で使ったとされる店である。1936年、「アロハ」シャツは商標登録される。申請者は洋品店キング・スミスの経営者エラリー・チャン。中国系移民の彼が最初に売り出したアロハシャツはムサシヤが仕立てた和柄のシャツだった。

 
 
キング・カメハメハをモチーフとした〈ムサシヤ〉のアロハシャツ。ブランド初期のラベルが付けられている
1922年に発行された広告冊子。ムサシヤは当時からこのような広告媒体を利用し、ハワイに訪れる観光客を相手に商品を販売していた。

 

仕立てるだけではない。当時のアロハシャツの生地を製作、輸出していたのは主に日本だ。とりわけ友禅をはじめ染織の中心地である京都や大阪は、戦時中を除きアロハシャツの黎明期から最盛期を支えた重要なテキスタイル産地であった。文様の意味を損なうことなく自由闊達に布地に描かれた和柄もあれば、ハワイらしいトロピカルな柄も日本でデザインされていた。アロハシャツ発展の歴史には日系人のみならず日本という国も深くかかわっていたのだ。

 
 
 

ハワイを象徴するファッションへ

アロハシャツが発展した背景には、ハワイが観光地として確立したことが大きい。1927年、サンフランシスコ~ホノルル間に客船が就航すると、米国本土から多くの観光客がハワイに降り立った。戦時中は米軍の要衝としてにぎわい、戦後は航空路の発達もありさらに観光客が押し寄せた。土産物としてのアロハシャツの需要は一気に増え、やがて米国本土でハワイブームが起こるようになると地元のメーカーだけでなく、本土のスポーツウェアメーカーなどもこぞってアロハシャツを作るようになる。

 

ダイヤモンドヘッドやハイビスカス、レイ、ウクレレといったあらゆるハワイの自然や文化にヒントを得たモチーフが「トロピカル柄」としてデザインされた。一方ハワイならではのミックスカルチャーを象徴する和柄は、最初期のアロハシャツやオリエンタルブームが起こった1950年代に多く見られた。

 

絵柄の配置にも独創的なものが生み出された。パターンや柄には素材やプリント方法との相性、そして時代的な移り変わりがある。黎明期1930年代からの主流であった「オールオーバー・パターン」のモチーフも年月を重ねるごとに徐々にサイズが大きくなり、1940年代後期になるとより派手なデザインとして「ボーダー・パターン」の作品が多く生み出された。アロハシャツの最盛期1950年代には更に自己主張の強いデザインとして、シャツ自体が一枚の画のように見える「ホリゾンタル・パターン」が生まれ、米国本土では「バックパネル・パターン」や「ピクチャープリント」など、より強烈なインパクトのあるデザインが作られた。

 

(アロハシャツの絵柄とデザインパターン) 

 
<アロハ>ブランド最初期のオリジナルデザインのひとつ、<キヒキヒ>の原画。現在スミソニアン博物館に収蔵されている
エラリー・チャンの妹で<アロハ>ブランドのデザイナーだったエセル・チャンと彼女が手掛けたマロロー(トビウオ)のデザイン画。

 

忘れてはならないのが、今も変わらぬ輝きを持った個性的なアロハシャツの数々を創作したデザイナーの存在。エセル・チャンは兄エラリー・チャンのためにキング・スミス社の〈アロハ〉ブランド向けに原画を描いた。フランスの画家ポール・ゴーギャンの版画作品の一部をコラージュした《ゴーギャン・ウッドカット》を考案したジョン・メイグスも、画家としての自らの才能をアロハシャツに残したひとりだ。アロハシャツのみならずムームーやパケ・ムーなどのドレスにも使われるこれらの柄は、単なるシャツの図案という枠を超えて、ハワイとハワイの自然や文化を愛する者たちとをつなぐ絆になっているのかもしれない。
 
 
「ゴーギャン・ウッド・カット」の第1作目のヴィンテージ。
 
1950年代に活躍したテキスタイルデザイナー、ジョン・メイグス。彼は最も影響を受けた画家、ゴーギャンの作品がモチーフの「ゴーギャン・ウッド・カット」をはじめ、数々の名作を生み出した。

アロハスピリッツを世界へ届けた“着られる絵はがき”

1950年代に米国本土でハワイアンファッションの流行が巻き起こる。ひとつのきっかけは先住ハワイ人の血をひくオリンピック金メダリストのデューク・カハナモク。ハワイの観光大使として全米の主要都市を巡ったことで、彼の名を冠したアロハシャツのブランドは一躍有名になる。アカデミー賞を受賞した映画『地上より永遠に』(1953年)に登場するのはデュークのアロハだ。

 
 
1953年の映画『地上より永遠に』で俳優モンゴメリー・クリフトは<デューク・カハナモク>のモンステラ・ボーダー柄を着用。
オリンピックの金メダリストとして活躍したデューク・カハナモク。当時のハワイで彼の名を知らない者はいなかった。
 

もうひとつ映画史に刻まれたアロハシャツといえば『ブルー・ハワイ』(1961年)でエルビス・プレスリーが着ていた《ティアレ・タパ》。他にもビング・クロスビーなどハワイを愛する様々なセレブリティたちがアロハシャツに身を包みながら、ハワイの存在とイメージを全米へ、そして世界へと知らしめた。

 
アロハシャツを着たエルヴィス・プレスリー。1950年代を象徴するヒーローだった彼の影響で、アロハシャツは米国全土に広まった
  

アロハシャツの歴史には、様々な文化の糸が複雑にしかも美しく織り込まれている。それは世界各地からの移住者が集い、摩擦を経験しながらも、互いの文化を尊重し共生の道を歩んできたハワイの歴史と重なっている。今やアロハシャツはハワイだけのものではない。世界中のクリエーターたちがアイデアの源泉とする場所であり、自らのアイデアを表現し新たな融合を生み出す場所でもある。ハワイが生み育んだ「アロハスピリッツ」は、アロハシャツという絵はがきに乗って今なお広がり続けている。

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このような歴史と文化の背景を持つSun Surfのヴィンテージアロハシャツは、単なるファッションアイテムではなく、ハワイと日本の文化が融合したアート作品です。ぜひ、「サンサーフ アロハシャツの魅力を徹底解説!」のページでSUNSURFのアロハシャツへのこだわりをチェックしてみてください。

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